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ネット世論とマスコミ報道の温度差

 最近の、大手マスコミが熱心に報道するメディア不祥事といえば、関西テレビの「あるある捏造問題」である。一方、ネット世論が注目し、罵声を浴びせかけているのはTBSの捏造問題だ。

 ここのところ、立て続けにTBSの報道の根幹に関わるような問題が発覚している。一つは、「総合格闘技HERO’S 2007開幕戦」でのニセ掲示板作成事件、そしてもう一つは、朝ズバッ内での、不二家不祥事捏造事件である。前者は、弊ブログの「記憶で作った番組」をご参考いただくとして、今回の事件のあらましは、サンスポの記事から抜粋したい。

 特集では、不二家の元従業員とされる女性が顔を映さずに登場。神奈川県の平塚工場で賞味期限切れのチョコレートを出荷先から回収、包装を外して溶かし、牛乳を混ぜて新品として再出荷する作業を日常的に行っていると伝えていた。不二家は同日の放映直後に「事実と異なる点があるので確認してほしい」とTBSに説明を要求。両社間で話し合いを重ねてきたが、不二家広報室は「(現在も)納得がいく説明をいただいていない」としている。不二家が同社の一連の不祥事を調査するため社外に設置した「信頼回復対策会議」によると、「流通システム上、チョコが工場に戻ることはありえず、牛乳を混ぜるプラントも実在しない」。同会議はこうした経緯について、30日に発表する一連の不二家問題の調査報告書に盛り込む。TBSは28日、記者会見を開き、“告発”証言をした女性が勤務していたのは10年以上前であり、再出荷作業が日常的だったとする部分は「10年以上前の状況についての証言だった」と明かした。牛乳を混ぜるとした部分については「実際は何を入れたか分からない」とし、「正確性を欠いた」と不二家側にすでに伝えたという。また、賞味期限切れだったというチョコが実際に店舗からの回収品だったかどうかは、「証言の力が大きいケース。流通ルートの事実関係を確認する裏付け取材が十分ではなかった」と釈明。「視聴者が誤解する可能性があった」とした。その一方、(1)賞味期限切れのチョコを溶かして再使用していた(2)賞味期限切れのチョコの包装を外し、新たに包装していた-という番組の「根幹部分の2点は間違いない」と明言。「断じて捏造ではなかったと確認している」としている。

 TBS側の公式見解には突っ込みどころがありすぎて、どこから書いていくべきが筆も惑うほどだが、さらにTBS井上社長の「(週刊文春の)見出しには『捏造』と書いているが、言葉を扱う側としてはどうだろうか。報道したことが正しいか間違っているかという議論はあるが、捏造というのはどうか」という言葉には、あきれるを通り越して苦笑しかわいてこない。

 週刊文春に言葉を扱うものの心得を問う前に、なぜ自分たちの報道をする側の心得に対して思いが至らないのか。わからずに言っているなら、お頭の具合が不自由であるとしか思えぬし、わかって言っているのであれば、人間として下衆である。このような人間がトップになる会社を信用できるはずがない。さっさと廃業してもらいたい。もちろん、これは、TBSとTBS井上社長への励ましの言葉である。

 と、まあ、毎度ながら笑わせてくれるTBSの小学生なみの詭弁は、すでにお家芸ともいえるが、不思議なのが他のマスコミ、特にテレビ・新聞の扱いである。関テレ社長の辞任問題は盛んに報道するのに、こちらはほんの少し、お茶を濁す程度に触れるだけ、毎日新聞などは、そんなことは無かったかのごとく完全無視である。それに対し、ネット世論では圧倒的にTBSの不祥事を弾劾する声が高い。この温度差は何だろうか?

 理由は容易に想像がつく。TBSがやっている程度のことは、自分たちも日常的にやっているから、下手に大きく報道できないのだ。薮蛇になることを避けたいのだ。だから、わざと小さく扱う。そこには、自分たちが扱わなければ、大きな世論に育たないと思い込んでいる傲慢さがある。確かに、ネットが一般家庭にまで普及するより前はそうだった。だが、今は違う。彼らが、それに気付くことができるのは、一体いつになるになるのだろう。

 気付けないままの彼らに、最早社会の木鐸を自任する資格はない。

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美酒

 日本人にとって「お酒」とは、米で醸造された日本酒を指さなければ嘘だ、と私は思っている。ワインブームだとか、焼酎ブームだとか、米以外で作られた酒が持て囃されるのは承知の上で、それでも「酒」とは米からできたものが一等であると主張したいのだ。

 理由は簡単だ。日本の食べ物には日本の酒が最もあうからだ。魚にもあう。肉にもあう。野菜にもあう。時として、まんじゅうなどにすらあう。日本の風土から発生したものなら、日本酒と合わせて駄目な食べ物などない。

 酒とは、風土に即して発達する。そして、その国の信仰や文化に根ざすものである。つまり、酒とはその国の文化そのものであると言ってよい。

 ところが、現在は日本酒が危機に瀕しているらしい。小規模の蔵元がどんどん潰れていっているという。酒市場における日本酒のシェアが、著しく減少しているというのだ。日本人が日本酒を飲まなくなっているらしい。

 これについて、国粋的に嘆くことも可能だろう。だが、私はそのような考え方には与することができない。先のように、「酒とは則ち日本酒だ」と考えていても、である。選択の幅が広がるにつれ、消費者の心に響かない商品が淘汰されるのは当たり前である。常に価格に見合った品質を適用できるならよいが、必ずしもそうではない日本酒が市場に流通している。誰が何を根拠に値付けをしているのかわからないが、価格と味が正比例するわけではないのが日本酒の現状だ。幸いなことに、私は酒呑み人生を送る中で、ある程度の目利きができるようになってきたから、近頃はそうひどい「はずれ」はひかない。だが、まだ右も左もわからぬ状態で、高価な屑酒を手にしてしまった消費者が、それに懲りて安価で当たり外れの少ない焼酎やワインに走ったとして、誰が文句を言えるのだろうか?

 日本酒が今後生き残っていく方策は、下手なマーケティングや、戦略に頼ることなく、実直に風土に合った酒を造ること、ただこれ一つだと、私は思うのである。

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中庸

 人の世は糾える縄の如くあると同時に、いつまでも振りの止まらぬ天秤のようなものである。特に、民主主義社会においては、その振れは永久に続くのだろう。

 そんな世の中であればあるほど、「中庸」を重んじなければならない。ところが、驚いたことに、このような言葉や精神を伝えるべき「倫理」の授業が、「受験に益するところが少ない」という理由で跳ばされたという。

 もちろん、全ての学校でそうだったわけではない。だが、前述のような理由でその授業を無くすような学校は、いわゆる進学校である確立が高い。そして、進学校であれば、そこに通う生徒は、将来エリートコースに乗るものも多いだろう。そのエリートコースに乗った生徒は、さらなる将来、日本の舵取り役を担う可能性が高い一群なのである。

 中庸とはなにか。辞書的定義によると、「 かたよることなく、常に変わらないこと。過不足がなく調和がとれていること。」(大辞林)ということになる。中正不易の精神である。この精神を重視した二人の古代の賢人がいる。アリストテレスと子思である。この二人の名前は、教養として当然知っておかなければならない。だが、学校で教えられなければ、知らぬままに終わるものもいるだろう。知らぬままだと、彼らの説く思想に触れることもできない。

 学校とは、本来基礎学力とともに、基礎教養を身につけるはずの場である。基礎教養とは、現代社会を人間らしく生きるために知っておくべき知識の入口だ。それがなければ、バランスの取れた人格が形成されるのは難しいだろう。そうして、何かを欠いた人格が、国の中枢に集まっていく。何やら、薄ら寒いものを感じざるを得ない。

 国のゆとり教育が的外れなのは、ゆとり=時間の短縮と結論づけたためだ。しかし、実際のゆとりとは、受験や実用に関係のない知識をも身につけることであり、その第一歩として、人名と書名を覚えるだけのいわゆる「詰め込み教育」があっても、全く問題ないのである。いや、むしろ、詰め込み教育は知識の間口を広げる役割もあるのだ。詰め込んだ知識がどこで役にたつかなど、誰にもわからない。

 知る機会を与えない。これは、教育として最もしてはいけないことなのではないだろうか。

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戸籍とは何なのか

 「300日規定」が見直される方向で、作業が急ピッチに進められているようである。歓迎すべきことだ。生まれた子が誰の子が判定する手段のなかった明治時代ならいざ知らず、DNA鑑定などで容易に親子関係の在・不在が確かめられるようになった現在においては、なんの意味もなさない規定だからだ。意味をなさないどころか、この法律が少なくない人数の国民に害を与える例が頻発しているという。早急なる改定が望ましい。

 しかし、もう一歩進めて考える必要がある。一体、戸籍とは、何のためにあるのだろうか?ここでは、戸籍の歴史的役割は問わない。なぜならば、社会体制も技術の進歩度も違う現代社会において、かつて戸籍が果たした役割を殊更強調することに意味を見い出せないからだ。

 かつて、戸籍は人のアイデンティティを証明するものだった。しかし、今はどうか。例えば、テレビに、失踪者の身元を捜す番組がある。手がかりがない場合、戸籍が一つの手がかりにされる。だが、大抵、その本籍地に本人がいないばかりか、親戚縁者すらいない。私も、その一人である。もし、誰かが私を探すために、私の本籍地を訪れたとして、そこには私を知る人すらいないだろう。こういう状態にある人は、決して少なくないと思う。このような状態で、戸籍に何の効力があるのだろうか。

 世界的に戸籍制度があるのは、東アジアだけ、しかも日本がかつての植民地に持ち込んだものである。そして、現在では廃止されたか、廃止の方向に進んでいる。なんでも世界の大勢に従うべきだとは思っていないが、戸籍に関して言えば、廃止してしまえばよいと考えている。現在社会においては、戸籍はメリットよりデメリットの方が多い。そのようなものを温存する意義は、どこにも見当たらない。

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ザ・フロッグ・プリンセス

 数日前のことになるが、ディズニーが史上初めて黒人のプリンセスを主人公にしたアニメを発表する、とのニュースが配信された。

 この十数年、ディズニーがPolitically Ccorrectに、非常に神経を尖らせているのは、そのラインナップを見ればわかる。美女と野獣のヒロイン、ベルは、白人女性だが非常に現代的な性格を持つ設定になった。アラジンで、初めて非白人系のプリンセスが登場した。ポカホンタスでは、初めてネイティブ・アメリカンを主人公に据えた。ムーランでは中国人、つまり黄色人種初のヒロイン、リロアンドステッチではハワイアンの少女、と次々にアメリカではマイノリティである人種のヒロインが登場し、そして、とうとう黒人プリンセスの登場である。

 悪いこととは言わない。まして、アメリカでは、黒人はすでにマジョリティだ。自分たちと同じ肌の色をしたプリンセスを待つ少女も多いだろう。だが、この「ザ・フロッグ・プリンセス」がロシアの民話をもとにしている、と言う点に激しく違和感を感じるのだ。

 考えてみて欲しい。ロシアには、ネイティブの黒人などいない。この「ザ・フロッグ・プリンセス」、つまり日本では「蛙の王女」として紹介されている作品は、白人であるロシア人のものである。主人公が黒人であるはずがない。これでは、かぐや姫が黒人として描かれるようなものだ。

 もし、黒人の少女たちに向けて、彼女たちが共感しやすいプリンセスを描こうとするならば、なぜ彼女たちのルーツであるアフリカの伝説を取り上げないのか。もちろん、アフリカは広大で、黒人だからと一括りにすることはできない。でも、初めての自分たちのプリンセスが、全く縁もゆかりもない国の伝説を換骨奪胎したもので作られるぐらいなら、同じ大地が生んだ伝説の方がしっくりくるのではないだろうか。

 もし、黒人にメジャーなプリンセスがいないから、と考えるなら、それは早計である。黒人には飛びきり有名なプリンセスがいる。アンドロメダである。

 アンドロメダは、ギリシャ神話に登場する、人類史上でも有数の有名姫君だが、彼女はエチオピア人である。エチオピアは古代から黒人によって建設された国家であるから、アンドロメダは黒人でなければならない。ギリシャ人も、エチオピアが黒人国家であることは知っていた。その選択を、ディズニーの有能なスタッフたちが一度も気づかなかったとは考えづらい。

 ここで、うがった見方ができる。ギリシャ神話はギリシャ人の神話ではあるが、その後汎ヨーロッパ、つまりは汎白人の神話となった。長らく、アンドロメダは白人として表現されてきた。もし、ここでアンドロメダを本来の黒人として表現するとどうなるか。少なからず反発が起こるだろう。一方において、ロシアはあくまでもヨーロッパにおける辺境である。「蛙の王女」の地位は、同じ王女であってもアンドロメダに及ぶべくもない。白人の反発を避けながらも、政治的に正しいとアピールできるアニメをつくるなら、どちらが楽か。答えは明白だ。

 ディズニーは巨大産業である。創り上げる「夢」にも、様々な思惑がからむのは仕方ないだろう。だが、この手のおためごかしな「政治的な正しさ」には、眉に唾した方がよいのは間違いあるまい。

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「記憶」で作った番組

 今度はTBSである。しかも、ある意味「あるある」より悪質だと言える。なんと、実在しないネット掲示板を「作成」し、「ファンの声」として放送したのだ。

 事の発端は、12日放送の「総合格闘技HERO’S 2007開幕戦」内で流された映像だった。ここでは、さも本物のネット上にある掲示板であるかのように、ある選手の批判が書き込まれた映像を放送したが、放送後、「そんな掲示板は存在しないのではないか」との指摘が上がった。それに対し、TBS広報部は実在の掲示板でないことを認めた上で、「イメージを伝えるために、番組担当者が作成したもの」としながらも、それを捏造とは認めていない。担当者の記憶に即して制作したもので、事実でないものをでっちあげたわけじゃないのだから、というのがその理屈らしい。

 このような手法は、「番組の演出」としては常套手段なのだろう。だが、新聞記事の後に、この映像を置き、しかもそこには何のインフォメーションもない。多くの視聴者が、それが実在するものと考えてもおかしくはない。まして、ソースは「記憶」である。あきれて物が言えない。今回、掲示板を「作成」するにあたり、モデルにしているのは明らかに「2ちゃんねる」である。一選手を中傷する罪を、彼らが勝手に「くず」と認定するネットメディアになすりつけようとしたらしい。

 TBSは毎日系列であるが、毎日新聞はこの正月に大々的なネットメディア批判キャンペーンを張った。その槍玉にあげられたのが、「2ちゃんねる」だ。毎日新聞の記者は、確実に「ネット世論」に悪印象を持たせる方向性で記事を書いていた。客観的に見て、公平性を欠く内容だった。しかも、取材した記者は、取材対象に対し、失言を言質とするためとしか思えないような失礼な質問を繰り返したという。昔であれば、その記者の記事だけが「真実」として流通した。記者は自分に都合の悪い事は、隠蔽していられた。だが、ネット社会ではそうは問屋が卸さない。この記者は、その恣意的な取材態度を、実名入りで「さらされて」しまった。ネットを批判しながら、実は何もネットとはどのようなものなのかを理解していなかった証拠である。理解していないものに対して記事を書くとは、どういう神経なのか、報道人としての姿勢が疑われる。

 最近のマスコミの一連の不祥事を見る限り、彼らは情報の受け手である我々をなめきっているのだとしか思えない。今まで「演出」と言う名の元に、罪悪感もなく「捏造」されてきた「真実」はいかほどあるのだろうか。

 だが、彼らのこの手法は、もうまかり通らない世の中になってきている。そして、マスコミはまだそれに気づけていない。このまま末期を迎えるのか、それとも起死回生を図れるのか。彼らの本当の力が見えてくるのは、これからである。

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語彙の貧困が招くもの

 「赤ちゃんポスト」が論議を呼んでいる。政治家や官僚は、同施設に違法性を認めずとしながらも、「違和感」や「抵抗感」を表明している。同様に、世論も大きく二分し、「生まれてきた赤ちゃんの命を救うために必要」とする意見がある一方で、「親の責任放棄を促進する」との懸念から反対する者も多い。

 これらの議論を見ていて気づくことがある。「ポスト」と言う名称に引き摺られて、無駄に感情的になっている意見が多いのだ。

 確かに、「ポスト」という言葉からは、まるで赤ちゃんを物のようにポイッと投函するような印象を受ける。だが、実体は全く違う。赤ちゃんは、外部から直接開くことができる保護設備に入れられ、入れられた瞬間に病院関係者にその知らせが届き、赤ちゃんはすぐさま、そこから保護される。赤ちゃんの命の安全が最優先されている。また、設備には、親の再考を促し、赤ちゃんを取り戻す際の手続きを書いた文書が置かれているという。

 厚労省のデータでは、全国の児童相談所に平成9年度から12年度の4年間で計858件の捨て子の相談があったという。二日に一度は、赤ちゃんが捨てられ、生命の危機に晒されているのだ。

 さらに、この取り組みの最大の眼目は、「子捨て」の容認ではなく、「一時保護」にあるという点だ。嬰児殺しの多くは、育児ノイローゼになり追い詰められた母親の犯行だという。それを防ぐにも、この保護設備は有効打となりうる。

 モデル国であるドイツでは、この設備をベビー・クラッペ(Baby Klappe)と呼んでいるらしい。クラッペとは、日本の「ギー、バタン」のような、扉の開閉の擬音であるそうだ。「ポスト」などという名称は使われていない。

 どうやら、この「ポスト」という言葉を使い始めたのは、日本のマスコミらしい。この安易な名づけのせいで、設備の本来義が隠され、闇雲な反発を生んでいる。もし、この設備が、本来の目的と内容に見合った名称で呼ばれていたら、どうだったか。もっと建設的かつ本質的な議論が行われていたのではないか。不用意な言葉を用いた彼らの責任は、大きい。

 それでなくとも、最近の報道関係者の語彙の貧困さは、目を覆うばかりである。テレビのアナウンサーは一般常識である言葉すら知らず、ネットに掲載される報道機関発の記事は誤字脱字の宝庫どころか、まともな日本語文になってないことすら、ままある。本来、最も言葉を大事にし、その効力を生かすべき仕事に従事する人間たちの、この意識の低さはなんだろうか。言葉には、強い力がある。それをコントロールできないのであれば、「第四の権力」を行使する資格は全くない。

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メディア・リテラシーの重要性

 関西テレビの番組に端を発した納豆騒動は、現代人のメディア・リテラシーの低さを浮き彫りにしたと考えている。
 テレビという公器で、虚偽の情報を流して平然としていた番組制作会社のモラルの低さは徹底的に非難されるべきだが、店頭から商品が消えるほど購買活動に影響を受けてしまう消費者というのも、いかがなものなのだろうか。
 問題になった番組は、情報番組という名の「バラエティ番組」、つまり娯楽を目的としたプログラムだった。これを100%真に受けるのは、あまりにも判断力が欠如しているといわざるを得ない。義務教育で習う程度の栄養知識を持っていれば、何か食品一品を食べたからといって痩せることなどあるはずがないのは、自明の理である。
 同様のことは、人気の占い師や霊能者が出演している番組にもいえる。あれらも、所詮娯楽番組だ。ドラマと同じく、脚本家が筋書きを書き、出演者はそれに沿って演出されたアクションをする。それを楽しむためのプログラムである。それにも関わらず、それを真実と思い込み、彼らを信奉し、その言葉をご宣託のごとくありがたがる人が後を絶たないらしい。その手の番組の高視聴率を支えているのは、そういった人々だ。
 テレビは、情報が上質だから放送するのではない。視聴率が取れ、スポンサーがつきやすいから放送するのである。彼らは、「彼らが」娯楽番組と認識しているプログラムから発信する情報に対しては、驚くほど倫理観も公共心も薄弱だ。
 さらに言うなら、報道番組も五十歩百歩である。民放は、あくまでもスポンサーから広告料をもらって番組を制作する営利企業に過ぎない。例えば、雪印や不二家がトヨタと並ぶ規模の広告主だったら、あれほど大々的なキャンペーンにはならなかっただろう。
 また、ブリトニー・スピアーズの奇行に時間を割くことはあっても、中国で頻発する農民デモを報道することはきわめて稀だ。東アジアの安定に影を落とすほどの問題であっても、「数字」が取れないニュースなら、一アイドルのスキンヘッド以下の価値しかないのだ。
 残念ながら、私たちは、その事を念頭に置きながら、テレビ番組を利用するしかない。そして、今目の前に流されている内容は、果たしてどのようなバイアスがかかっているのかを考えながら視聴しなければいけない、そんな時代になっているのだ。

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自然美と人工美

 華道や盆栽などをして「自然の美に人為を加えるのはけしからん」とする人々がいる。曰く、自然の造形美に勝るものはなく、それ以上は蛇足である、と。

 一見、的を射た主張のように見えるが、実のところ、あまりにも幼すぎる審美力だと言わざるを得ない。これに類する「幼さ」は、今の世の中に氾濫している。

 例えば、「魚は新鮮なのが一番」と、まだ尾や頭が痙攣しているような船盛りを喜ぶような心、「子供の何気ない言葉は最上の詩」と、それらを殊更ありがたがるような、そんな心だ。

 魚は、もちろん新鮮なのが旨いのは間違いないが、なんでも下ろしたてが一番というわけではない。一部の魚は、刺身にするにも一夜ほど熟成させた方が旨みを増すものもある。新鮮第一主義では、見逃してしまう味が確かに存在するのだ。

 また、子供の何気ない言葉が、時として大人の心を揺さぶるのは、単に子は大人より生活の中の感動を受ける余地が多く残っており、私たちはその言葉に、昔の感興を改めて思い出すからであって、いわば一種のビギナーズラックのようなものである。もし、本当に感受性に優れるのであれば、その子に豊富な語彙や知識を与えたら鬼に金棒になるのは間違いない。

 多くの道を究めた先人が、最後に「無為の美」に辿り着いた。だが、それは、人為の極致の果てに到達した境地なのであり、最初から何もしないこととイコールなのではない。私の経験によると、何にしても、その道に知識も理解もない、経験不足なものほど、素材第一主義を唱えることが多い。それらは、主張のように見えて、実は自らの「ないない尽くし」に気づかないふりをするための隠れ蓑なのである。そのような自らの稚気、自己欺瞞に気づくためにも、先人が残してくれた「道」を学び、実践することが大事なのだ。その果てでこそ、私たちは、やっと本当の意味での「素材のよさ」を理解できるようになるのだろう。

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