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朝顔の季節

 近所の家々の軒端に、朝顔が慎ましやかな面を見せる季節になった。色とりどりの、羽二重の質感を持つ花はいうまでもなく、蔓植物特有の旺盛な成長ぶりも目を楽しませてくれる。

 昨年は、朝顔市で購った一鉢を我が苫屋にも置いてみた。しかし、今年はもっぱら他所様の頼りにして観賞することにした。朝顔の栽培には、昨年ですっかり懲りてしまったのだ。育てた朝顔は、午前中には陽光がさんさんと降り注ぎ、光も暑さも厳しさを増す午後には陰になるといううちの東向き環境によっぽど適合したのか、みるみる丈を伸ばし、用意した支柱などは瞬く間に追い越し、足りなくなると自分自身に巻き付いて奇態なオブジェ状になった挙句、ついにはガス湯沸かし器の中にまで先端を潜らせるという乱暴狼藉を働くに及ぶようになり、安全面を考えると泣く泣く剪定せざるをえなくなったのである。

 注意深く見ると、近所でも、東向きに植えている家では、かなり高くまで支柱を用意している。鉢は玄関先に置きながら、二階からつるした紐に絡ませているお宅もあるほどだから、条件が合えばかなり成長するものなのだろう。

 儚げなイメージの花の、思いもよらぬ生命力。やはり、朝顔は、陽気極まる夏にふさわしい力を持つ植物なのである。

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朝青龍問題について

 日本相撲協会は、朝青龍に対して、二場所の出場停止という重い処分を下した。さらには給与の減額、謹慎に等しい外出禁止など、今までの処分を考えるとまさに椿事というにふさわしい厳罰ぶりである。

 横綱という重責にありながら、軽率な行動が目立ち、そして一向に改める様子のない朝青龍には猛省を促したい。また、一見大変な処分だが、今までの問題行動の累積の結果だと思えば、まあこんなものか、とさえ感じる。

 だが、私は、この問題は、朝青龍個人の資質にすべてが還元するものではないと考えている。

 我が家の近所には多くの相撲部屋がある。おかげで、力士の日常というのを目にすることがあるのだが、あきれることが実に多いのである。

 たとえば、明らかに未成年とおぼしき若い力士が、平気でパチンコ屋に出入りしている姿を見る。自転車に乗りながら、手にしていた紙をポイ捨てする姿を見る。若い女性と手をつなぎながら歩く姿を見る。品格もなにもあったものではない。

 さらにいうならば、ある部屋など、相撲部屋という、日本の良き伝統を伝えるべき場所において、正月に門松はおろか注連飾りすら飾らない。この部屋にはモンゴル出身の力士も複数いる。こんなことで、どうやって日本の心を外国人である彼らに伝えるつもりなのか。今の外国人力士や若い力士たちが、四股や手刀など、独特の仕草が持つ文化的意味を理解しているのかすら、はなはだ心許ない。

 これらが何を示すのは、今の親方衆の指導力不足、そして意識の低さである。日本の伝統競技である「相撲」を作り支えているのは自分たちだという自覚のかけらも見あたらない。相撲はたんなる格闘技でもスポーツでもない。一つの文化なのだ。その担い手たちは、矜持を持つとともに強い自覚を持たなければならない世界なのである。

 相撲協会は、親方や力士に処分を下すだけではなく、角界全体の引き締めと協会自身の深い反省をもって今後の運営にあたってほしいと、切に願うものである。

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