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言い訳

 今年度内に年金記録の名寄せが終了しないのが確実な情勢になったことで、自民党が参議院選挙の時に掲げた約束は嘘だったのかと問われ、福田首相が「公約といえるのかどうか」と発言した。このことで、一度収まりかけていた年金問題がまたクローズアップされ始めた。いずれにせよ、政府与党の本音としては一連の不祥事は社保庁の責任であり、自分たちが責められるのはトバッチリという思いがあるのだろう。もちろんそれを口に出せば、当然行政責任を問われるわけだから言うはずはないが、その気持ちがこういった失言の端々に現れているように思う。しかも、その発言に対しての公的な言い訳が「前政権が言葉足らずだった」であり、同じ与党の仲間に泥を被してまで責任を回避したいものかと、私などはむしろこちらに呆れたような次第だ。

 国・企業を問わず、最近の不祥事の謝罪会見では、どうにも責任回避の姿勢が目立って仕方ない。 船場吉兆など、それの良い例だった。圧倒的弱者であるパートに濡れ衣を被せるなど、人として恥ずかしくないのだろうか。そもそも、取締役とは企業の責任者である。その人間が責任を取らないで、誰が取るというのだろう。

 昔から蜥蜴のしっぽ切りは繰り返されてきたことで、別に今時の風潮であるとはいわない。だが、昔と違い、格段に情報が漏れやすい社会になっている上は、昭和の時代のような言い訳は通用しないと考えるべきだろう。特に企業においては、そのリスクは一段と高い。なぜなら、人件費を削減するために増やした臨時雇用者が、正社員と同じだけのロイヤルティを企業に持つわけなどないからだ。

 食品関係の会社は、旧態依然としたところが多い。役所も然り。そこで不祥事が頻発しているのもむべなるかなである。これをもって他山の石とできるかどうか、そこに責任者としての資質が問われるのではないだろうか。

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カレーライス

 子供ならば誰でも大好きと思われているカレーライスであるが、私は嫌いだった。なぜならば、子供相手に辛さを調整するなどという細やかな芸当は幼稚園までと決めていたらしい母の作るカレーが、まさにインド人もビックリの辛さだったからである。一度など、湯気が顔に当たっただけで目が刺激されて涙が溢れるカレーというのを出されたことがあった。一体、家庭でなんの罰ゲームという話だ。

 お陰で、年齢の割には辛さが平気な子供に育ったわけだが、やはり美味しいとは思えないでいた。しかし、不幸なことに、一度辛いカレーに馴れると学校の給食のような甘口カレーも何とも物足りなく感じるのだ。結局、初めて美味しいと思ったカレーは、食べ盛り……食べ物であればバキュームポンプのように胃の腑に収めるようになった中学生の時分に、何かのキャンプで食べたものだった。しかし、これも空腹といつもと違うシチュエーションが最高のスパイスになっていたからだろう。

 やがて大人になり、一言でカレーといっても日本的欧風カレーと本場印度カレー、そしてタイカレーでは全く違うことを知ることになる。私の口に最も合うのが、タイカレーだ。特にグリーンカレーは大好きで、タイ料理屋に行くと毎回これにするかトムヤムクンにするかで大いに悩む。我が人生におけるベストカレーも、タイ旅行中にあるボランティア施設でごちそうになった野菜のみのグリーンカレーだった。あれを上回るものを日本で望むのはむりなのだろう。

 酸味のある辛くないカレーより、マイルドで辛さ充分なカレーが好きなのだが、逆の人間もおり、どうにも趣味が合わない時がある。困ったことである。

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寒中の赤

 花屋の店先に、シクラメンやポインセチアが場所を取る季節になった。冬枯れの時期、外気温の中でも鮮やかな赤を見せる植物が好まれるのは古今東西問わないのだろう。シクラメンやポインセチアが伝わる以前の日本では、南天や千両、万両の赤い実が尊ばれていた。この三つは似た外見ではあるが、別種の植物である。だが、どれにも共通するのは名の目出度さ。南天は「難を転ずる」に通じるところから、お正月の生け花には欠かせない花材であるし、千両・万両はその名のまま富裕に繋がるとして商家で喜ばれた。

 雪の朝などは、雪の白、緑の葉、そして赤い実のコントラストがいかにも美しい。西洋でこれに代わるものが柊だろうか? いずれにせよ、その鮮やかな対比を喜ぶ感性に大きな違いはないようだ。

 花の兄が目を覚ますまで、けなげに寒中耐える赤。小さいながらも、限りない命の強さを感じさせてくれる植物たちである。

 

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占いの禁止

 タジキスタン政府が、占いや魔術を法律で取り締まる動きを見せているという。ニュース一読、どこの中世国家かと驚いたが、国にはそれぞれ事情があるものなのだろう。なにせ、違反すると最低月額賃金の三十から四十倍もの罰金が科されるというのだ。日本の最低賃金が十五万程度として、単純換算すると四百五十万から六百万円の罰金ということになる。これはかなりの額だ。

 翻って我が国の事情を考えると、案外他人様の国を笑えたものでもないのかも知れない。なにせ、ゴールデンタイムの番組で、何様かわからないような占い師が無責任なことを声高にわめきちらすのを流しているような国である。一説によると占い産業は一兆円産業とも言われている。未来という不確定な世界に向かって歩み続けなければならない宿命を負っている人間にとっては、占いですら一抹の光明なのだろう。

 かく言う私も占いは好きである。好きであるが、読んだ瞬間、聞いた瞬間に忘れてしまう。友人などと話していても、そんなタイプが意外に多い。そんな私たちなら、タジキスタンでも罪問われないとは思うが、そこまで占い好きな国民の支持する占術というのは、ちょっと試してみたい気もするのである。

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柿の木と蜜柑の木

 先日、北関東の農村地帯に行くことがあった。

 広い田畑に点在する農家。その庭には必ずと言って良いほど柿の木と蜜柑の木が植えられてあって、それぞれ美しい実をたわわに実らせていた。熟した柿の赤みを増した柿色と、蜜柑の黄金色が、色彩の消えつつある景色の中では一際映えて見える。

 軒先に干し柿を下げている家も少なからずあり、そこには懐かしい日本の風景があった。

 とはいえ、私は町育ちの人間。心にある原風景はというと、実は小汚いコンクリートの箱のような団地であり、とてもではないが情緒豊かな田舎の風景など望むべくもない。だから、晩秋の農村風景に懐かしさを感じるのは、本来おかしいはずだ。一体、どこでこのような感性をすり込まれたのか。不思議と言えば不思議である。

 そんな事を考えながらも、その風景に心が安らぐのは間違いないのだから、なにも理屈などいらない。なくなって欲しくない日本の一つである。

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ネットでの情報発信

 吉野家とケンタッキーフライドチキン。誰もが知っているファーストフードチェーンで、立て続けに騒動が起きた。ここのところ、飲食・食品業界のニュースというと、表示や原材料の偽装と相場が決まっていたが、今回はそれとは関係ない。アルバイトが起こした事件である。

 吉野家は、アルバイトが「テラ牛丼」なるものを厨房で作った様子を携帯電話の動画撮影機能で撮り、それを動画閲覧サイトにアップロードしたことから始まった。その様子が、取り扱っている食品を無駄にし、なおかつ衛生的に問題がある状態だったため、映像をみた消費者から本社にクレームの電話やメールが殺到したらしい。

 一方、ケンタッキーフライドチキンは、アルバイトをしている高校生というのがSNSで「油でゴキブリを揚げた」と書いたのを切っ掛けに、まずは本人のSNSブログが炎上、それが2ちゃんねるに飛び火したようだ。

 これらの事件は、ネット社会だからこそ発生した事件といえる。だが、その背景には、行為の結果への想像力の欠如という、昔ながらの構造が存在している。例えば、冬山にスキーに行くのに、TシャツとGパンしか用意しない人間はいないだろう。それと同じで、ネット利用にも、それなりの準備と心構えが必要である。ところが、そんなこともわからずに、不用意な行為をした結果、行為以上の報いを受ける結果になってしまったわけだ。本人たちは、自分たちのしたこと、書いたことがこれほど反響を呼ぶなど、想像もしていなかったのだろう。とにかく、あまりにも幼稚である。

 結局、吉野家のアルバイトには何らかの処分が下され(内容は明らかにされていないが、解雇である可能性が高い)、ケンタッキーフライドチキンのアルバイトは社会を騒がせた責任を取るとして高校を自主退学したそうだ。後者の場合は、アルバイトは校則で禁止だった上、SNSに喫煙している写真をアップしていたそうで、必ずしも事件だけが影響しての退学でもなさそうだが、いずれにせよ高すぎる代償になったのは言うまでもない。

 さすがにここまで馬鹿な行為をすることはないが、情報発信への自覚という意味においては、もって他山の石とすべきなのかも知れない。

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名前の功罪

 先日、とある有名フランス料理店に行くことがあった。デパ地下の総菜コーナーなどにも出店している有名シェフの冠レストランで、マスコミにもしばしば登場する。有名だから絶品を出すとはいかないまでも、それなりに旨いものにありつけるだろうと、そこそこ期待していた。だが、それは見事に裏切られた。料理全般、味・盛りつけを含め、全く見るべきところがない。そこの名物とされるスイーツも、どこにでもあるような味だった。下手すればコンビニのものと大差ない。唯一おいしいと思ったのは、アミューズとして出されたオリーブ漬けのみだったのである。あれ以上のフレンチを、半値以下で出すレストランは銀座にだってある。正直、大いにがっかりした。連れてきて下さった方にも、心からおいしいと言えず、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 レストランも規模が大きくなればなるほど、味より経営の追求になるのはある程度致し方あるまい。だからといって、名ばかり喧伝され、提供するものがその期待に応えられないようでは、客足も遠のくだろう。そうなると、またサービス・味ともに質が下がる。抜け出せない負のスパイラルだ。件のレストランは、すでにその端緒に着いているようにすら感じられた。それでも名前だけで客が来続けるのであれば、それは店・客双方にとって大いなる不幸と言うしかないだろう。

 ふと気になって、このレストランがミシュラン東京に掲載されているかを調べてみた。なんと、一つ星だった。ミシュランガイドの信頼度が、私の中で最低ラインにまで落ちたのは言うまでもない。

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初冬の公園

 今年は気温が高めの秋だったせいもあり、街場は今紅葉のベストシーズンを迎えている。

 うちの近所の公園も、初冬の済んだ青空を背景に銀杏の黄色や広葉樹の赤茶色が混ざり合い、思わず足を止めてしまうほどの絵画的な美しさを見せている。我が家のベランダに植えているつつましやかなブルーベリーの木も、来る長い冬の前にして、全身を美しい赤で染めた。それもまた、青空によく映える。春は個々が美しいが、秋は全景が美しい。

 これが過ぎると、自然界からは一挙に色が消えていく。常緑樹や南天やシクラメンなどの一部を除けば、枯れ木が景色を支配する。色彩的には味気ないが、晴天の日、葉を落とした広葉樹の細い枝越しに空を見ると、繊細な銅版画を見ているような気がして、これはこれで冬でしかのぞめない景色であり、楽しみである。

 四季の移ろいを見るに、花草木に勝るものはない。そして手近な美しさとしても、これに勝るものはないのである。

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罰当たりと恩知らず

 ギリシャ正教会の女子修道院の庭で大麻が栽培されているのがみつかり、庭師として働いていた男二人が逮捕されたという。身元不明のこの男たちは、修道女に対しては庭造りの手伝いをする、と嘘をついて中に入り込んだらしい。神の庭で、神に仕える女性たちをだますとは、実に不貞不貞しい。罰当たりも甚だしいとしか言いようがない。世間知らずの修道女たちは、それがご禁制の麻薬とは知らず、なにかの観葉植物だと思っていたという。もちろん、彼女たちはなんの罪にも問われなかった。

 一方、日本では、関東学院大学ラクビー部部員が大麻を吸引していたとして逮捕されたが、取り調べが進む中、他に十二名にも及ぶ部員が同罪だったことが判明した。これを受け、春口廣監督が辞任を発表した。テレビで見る限り、ラガーマンらしい顔が、憔悴しきっているように見受けられた。教え子に裏切られた心痛だろうか。最初の事件を受け、他の部員一人一人に確認をとった時には、全員が関与を否定していたという。それにもかかわらず、新たな逮捕者が出る様相となった今、部員たちと心が通じていなかった現実を目の前に突きつけられた監督の心痛は、察するに余りある。

 思うに、どちらのケースも、大麻に手を染めたことより、他人の信頼を逆手に取り、騙したことの方が罪深い。人を信じるということは、それだけで尊い。そして、その信が反故にされた時、傷つくのは騙した方ではなく、騙された方なのだ。

 それでも、修道女たちは、まだ神に救いを求めることができるだろう。男たちに対する慈悲からの赦しそのものが、傷を癒す特効薬になるかもしれない。だが、監督の方は、今まで大学生スポーツの指導者として積み上げてきた実績に泥を塗られ、信じていた学生たちに恩を仇で返された今、何に救いを求めればよいのか。心中慮るに、どうにも気の毒でならないのである。

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三友

 いよいよ師走である。寒さも一段と深まり、冬本番の気配が漂ってきた。電気代節約のため、未だ厚着のみでしのいでいるが、こうしてキーボードを打つ指先が冷たく、吐く息が白くなるとそろそろ諦める頃合いか、という気にもなってくる。

 しかし、寒くなると寒くなったで楽しみがある。酒である。やはり熱燗を楽しむには、きりりとした冷えが不可欠だ。

 古人は、酒と琴と詩を三友と呼び、風雅に欠かせぬものとした。当方生憎の無粋者にて、琴と詩はとんと駄目だが、酒だけは長年の友として親しみ、尊重している。酒であるならば、特にどれとは言わないが、やはり冬の熱燗は格別だ。つまみなどほとんどいらない。時折口直しする塩気があればよい。電子レンジでの燗はやはり味気ない。湯を沸かした鍋に徳利を漬け、ゆせんで温めたい。この方がなにやら味もまろやかに感じる。

 酒は忘憂の友。長い冬を過ごすに、これにまさる相方はおらぬだろう。

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値上げの冬

 今冬、世界的な原油価格や穀物の高騰を受け、生活に身近な商品が次々と値上げに踏み切るという。タクシーの初乗り運賃、インスタントラーメン、マヨネーズ、ビール、菓子類など、普段何気なく手にしている商品が、いかに世界経済に、とりわけ原油価格の動向に繋がっているかを改めて実感することになった。

 しかし、それ以上に驚くのは、たいていの商品の値上げに、「二十年ぶり」や「三十年ぶり」といった言葉が並ぶことである。四半世紀前後、価格を変えていなかったというのだ。それができたのは「企業努力」のおかげだったという。

 この「企業努力」という言葉には、様々な努力が含まれよう。原材料の調達、製造工程のカイゼン、運送の効率化など、ありとあらゆる手段がとられている。その中には、当然「人件費の削減」も含まれ、それが大きなウェイトを占めているだろう。

 原油以上に、どんな商品にもついてまわるのが、人件費である。原価にこれが含まれない商品など、この世に存在しない。だから、ここを圧縮することで、価格を維持しようとする。その結果、四半世紀にわたりピクリとも動かない小売価格が実現したとともに、賃金を含めた労働環境の悪化を招いたのは間違いないだろう。それは国内だけではない。私たちが目にすることのない、遠い国での搾取をも生んでいるのだということは、自覚しなければならない。

 価格とは、その商品に費やされた人手に対する対価である。暴利を貪ることは許されないが、相応の利益を上げることは当然であるし、それが社会を活性化させる。なにより、その商品を手元まで届けてくれた人々に対する感謝の表れであることを、忘れてはならないのではないだろうか。

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茶懐石

 茶事の懐石は、日本料理の神髄であるという。

 私も過去、なんどか初釜などで正式な茶事に参加したことがあるが、なにぶん数奇心を解さない人間なので、楽しみと言えばもっぱら食べる方。茶事の懐石は、茶をおいしく服するために腹具合を整えるためのものだが、私にしてみればこっちがメインだった。私の茶の師匠である故大塚松子先生が聞かれたら、あまりにも不肖の弟子よ、と嘆かれることだろう。だが、師匠が初釜でこさえてくださった鯛の昆布締は、今まで食べたうちのもので最も美味しかったので、その事をお伝えすることで、なんとかお許しを請いたい。

 茶の心とは、すなわちおもてなしの心である(らしい)。招待状から始まり、全てが終了してお客様を送り出すまで、その全てが「茶事」である。

一 茶は服のよきように点て
二 炭は湯の沸くように置き 
三 花は野にあるように
四 夏は涼しく冬暖かに
五 刻限は早めに
六 降らずとも傘の用意 
七 相客に心せよ

 これは有名な利休七則であるが、この中に、その「おもてなしの心」の全てが込められているらしい。特別なことは何もない。それなのに、その全てを適えようとすると、細心の注意が要求される。当たり前を当たり前にすることの、いかに難しいことか。

 だから、茶懐石の料理も、あえて技を誇示するようなものは出さない。現代の華麗に飾られた料理を見慣れている目では、むしろ地味にさえ思える。だが、その一品一品には、表面には出てこない手間暇がかけられ、その素材を最も美味く食べられるような工夫がされている。それは、料理方法だけにとどまらず、見た目を構成する大きな要素である器にも、心が砕かれる。そういった全体の工夫こそ、日本料理の肝である、ということのようだ。

 これらの全てを感得するためには、招かれた方にも相応の感性と知識が要求される。だから、真に茶事を楽しむことができる人は、すなわち本物の数奇者と認められるわけである。

 その境地に至るには、いったいどれだけの時間とお金がかかるものやら。少なくともこんな心配をしているようでは、道遙かに遠し、であることだけは確実である。

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