カレーライス

 子供ならば誰でも大好きと思われているカレーライスであるが、私は嫌いだった。なぜならば、子供相手に辛さを調整するなどという細やかな芸当は幼稚園までと決めていたらしい母の作るカレーが、まさにインド人もビックリの辛さだったからである。一度など、湯気が顔に当たっただけで目が刺激されて涙が溢れるカレーというのを出されたことがあった。一体、家庭でなんの罰ゲームという話だ。

 お陰で、年齢の割には辛さが平気な子供に育ったわけだが、やはり美味しいとは思えないでいた。しかし、不幸なことに、一度辛いカレーに馴れると学校の給食のような甘口カレーも何とも物足りなく感じるのだ。結局、初めて美味しいと思ったカレーは、食べ盛り……食べ物であればバキュームポンプのように胃の腑に収めるようになった中学生の時分に、何かのキャンプで食べたものだった。しかし、これも空腹といつもと違うシチュエーションが最高のスパイスになっていたからだろう。

 やがて大人になり、一言でカレーといっても日本的欧風カレーと本場印度カレー、そしてタイカレーでは全く違うことを知ることになる。私の口に最も合うのが、タイカレーだ。特にグリーンカレーは大好きで、タイ料理屋に行くと毎回これにするかトムヤムクンにするかで大いに悩む。我が人生におけるベストカレーも、タイ旅行中にあるボランティア施設でごちそうになった野菜のみのグリーンカレーだった。あれを上回るものを日本で望むのはむりなのだろう。

 酸味のある辛くないカレーより、マイルドで辛さ充分なカレーが好きなのだが、逆の人間もおり、どうにも趣味が合わない時がある。困ったことである。

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名前の功罪

 先日、とある有名フランス料理店に行くことがあった。デパ地下の総菜コーナーなどにも出店している有名シェフの冠レストランで、マスコミにもしばしば登場する。有名だから絶品を出すとはいかないまでも、それなりに旨いものにありつけるだろうと、そこそこ期待していた。だが、それは見事に裏切られた。料理全般、味・盛りつけを含め、全く見るべきところがない。そこの名物とされるスイーツも、どこにでもあるような味だった。下手すればコンビニのものと大差ない。唯一おいしいと思ったのは、アミューズとして出されたオリーブ漬けのみだったのである。あれ以上のフレンチを、半値以下で出すレストランは銀座にだってある。正直、大いにがっかりした。連れてきて下さった方にも、心からおいしいと言えず、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

 レストランも規模が大きくなればなるほど、味より経営の追求になるのはある程度致し方あるまい。だからといって、名ばかり喧伝され、提供するものがその期待に応えられないようでは、客足も遠のくだろう。そうなると、またサービス・味ともに質が下がる。抜け出せない負のスパイラルだ。件のレストランは、すでにその端緒に着いているようにすら感じられた。それでも名前だけで客が来続けるのであれば、それは店・客双方にとって大いなる不幸と言うしかないだろう。

 ふと気になって、このレストランがミシュラン東京に掲載されているかを調べてみた。なんと、一つ星だった。ミシュランガイドの信頼度が、私の中で最低ラインにまで落ちたのは言うまでもない。

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茶懐石

 茶事の懐石は、日本料理の神髄であるという。

 私も過去、なんどか初釜などで正式な茶事に参加したことがあるが、なにぶん数奇心を解さない人間なので、楽しみと言えばもっぱら食べる方。茶事の懐石は、茶をおいしく服するために腹具合を整えるためのものだが、私にしてみればこっちがメインだった。私の茶の師匠である故大塚松子先生が聞かれたら、あまりにも不肖の弟子よ、と嘆かれることだろう。だが、師匠が初釜でこさえてくださった鯛の昆布締は、今まで食べたうちのもので最も美味しかったので、その事をお伝えすることで、なんとかお許しを請いたい。

 茶の心とは、すなわちおもてなしの心である(らしい)。招待状から始まり、全てが終了してお客様を送り出すまで、その全てが「茶事」である。

一 茶は服のよきように点て
二 炭は湯の沸くように置き 
三 花は野にあるように
四 夏は涼しく冬暖かに
五 刻限は早めに
六 降らずとも傘の用意 
七 相客に心せよ

 これは有名な利休七則であるが、この中に、その「おもてなしの心」の全てが込められているらしい。特別なことは何もない。それなのに、その全てを適えようとすると、細心の注意が要求される。当たり前を当たり前にすることの、いかに難しいことか。

 だから、茶懐石の料理も、あえて技を誇示するようなものは出さない。現代の華麗に飾られた料理を見慣れている目では、むしろ地味にさえ思える。だが、その一品一品には、表面には出てこない手間暇がかけられ、その素材を最も美味く食べられるような工夫がされている。それは、料理方法だけにとどまらず、見た目を構成する大きな要素である器にも、心が砕かれる。そういった全体の工夫こそ、日本料理の肝である、ということのようだ。

 これらの全てを感得するためには、招かれた方にも相応の感性と知識が要求される。だから、真に茶事を楽しむことができる人は、すなわち本物の数奇者と認められるわけである。

 その境地に至るには、いったいどれだけの時間とお金がかかるものやら。少なくともこんな心配をしているようでは、道遙かに遠し、であることだけは確実である。

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ミシュランガイド 東京版

 先週、ミシュランガイドの東京版が発刊され大いに話題になった。発売日から五日ほどたって本屋をのぞいたところ、「ミシュランガイド売り切れ」とのこと、初回とはいえずいぶんな盛り上がりである。

 三つ星に選ばれたレストランは、案の定値段も三つ星級のところばかりで、しばらくご縁はなさそうであるが、一つ星ならば行ったことがある店が二件ほどあった。その二件を基準に考えると、どうやら星がついて妥当な店は他にもたくさんありそうだ。

 掲載店全店に星が着いたのは東京版が始めてだそうで、それを以てガイド編集の総責任者のジャン・リュック・ナレさんは「東京は、世界一の美食の町だった。」と話したそうだが、ミシュランガイドブックの大得意である日本人に向けてのサービス(というか販売戦略)であるとの穿った見方もあり、「ミシュランガイド」そのものの実力が判明するのは、もうしばらく経ってのことだろう。

 ところで、もし食いだおれの街 大阪のミシュランガイドが出たとしたら、もっと多くの店が選ばれるだろうか? 私は、それはないと思う。下手すれば、三つ星は一軒も出ないかも知れない。なぜなら、大阪での「旨い店」基準と、ミシュランの基準があまりにもかけ離れているからだ。ここに載るような、高くてお行儀の良い店に、本当の美味しいものを探すことは難しい街なのである。プレリストにすら載らないであろう店、そんなところに大阪の食の神髄が隠れている。

 そして、東京も、案外そうなのかもしれない。

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コロの関東煮

 京阪地域で育ったある一定以上の年齢の方は、「コロ」なる食品をご存じだろう。鯨の皮下脂肪を、脂肪分を抜いてからカラッカラに乾燥させたもので、三ミリほどの厚さの黒い皮の下に、目の詰まったスポンジのような薄黄色い脂肪層がついた乾物だ。

 昨日のように木枯らしが吹き、冬将軍の息吹が間近に感じられるようになると、脳裏にこの食べ物が浮かぶようになる。捕鯨が制限されるまで、この「コロ」が入った関東煮(かんとだき、と読む)は、ハリハリ鍋とともに寒い季節の食卓にはかかせないものであった。

 このコロ、実によい出汁が出る。小型鯨のものは、少々臭みはあるが、ナガスやマッコウのような大型なのから取ったものはその心配もない。だいたいにおいて「臭くて食べられない鯨」というのは、小型かイルカのものだ。臭みについていえば、我慢できるのはミンク鯨がギリギリであるように思う。とにかく、このコロが入らなくなった現在の関東煮は、今ひとつ物足りない。大阪でも有名店の関東煮には、現在でもコロが種として現役でがんばっている。昔ながらおいしさを守るためには、やはり欠くことができないのだろう。東京は大抵の食べ物を口にできる土地だが、コロばかりはお目に掛かったことがない。築地の市場でも見かけない。いくら流通が発達しようと、どうやっても広がない食文化というのはあるのだろう。また、そうでなくてはいけない。

 そうそう、このコロが入った関東煮は、なぜか「関西風」とされている薄味のおでんとは似て非なる食べ物であることを、特記しておかなければならないだろう。わざわざ「関東煮」と呼ぶぐらいであるから、かなり濃い味付けで煮たものなのである。このおいしさを知ると、うどん出汁の風呂に具が泳いでるような「関西風おでん」などあほらしくて食べられない。練り物や根菜、蛸、牛すじ、コロなど、ありとあらゆる山海の食材が、地獄の釜でグツグツやられた結果、透明度0の煮汁になったようなのがたまらんのである。家で作るのも悪くないが、やはり屋台や店で売っているものに軍配は上がる。この手の食べ物は大量に作ったほうが断然おいしい。

 そして、私にとって関東煮とは、お正月の味でもあった。

 父母に連れられて氏神さんに初詣に行った帰り道、参道の屋台で食べた関東煮。偏食が激しかった子供時分には、大根とこんにゃくしか口にできなかったのだが、熱いのは全く平気な子供だったので、鍋から上げたての熱々を素早く口に放り込む。一噛みごとに広がる出汁の旨味。冷たくかじかんでいた手先や足先が、瞬く間に温かくなっていくのを感じる。父はワンカップの熱燗を飲み、母は甘酒を飲む。この時ばかりは、団欒と言うに相応しい柔らかな空気が家族を包んだ。吐く息が一段と白さを増す。

 懐かしい、思い出である。間もなく、東京で迎える四度目の正月が来る。

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