寒中の赤

 花屋の店先に、シクラメンやポインセチアが場所を取る季節になった。冬枯れの時期、外気温の中でも鮮やかな赤を見せる植物が好まれるのは古今東西問わないのだろう。シクラメンやポインセチアが伝わる以前の日本では、南天や千両、万両の赤い実が尊ばれていた。この三つは似た外見ではあるが、別種の植物である。だが、どれにも共通するのは名の目出度さ。南天は「難を転ずる」に通じるところから、お正月の生け花には欠かせない花材であるし、千両・万両はその名のまま富裕に繋がるとして商家で喜ばれた。

 雪の朝などは、雪の白、緑の葉、そして赤い実のコントラストがいかにも美しい。西洋でこれに代わるものが柊だろうか? いずれにせよ、その鮮やかな対比を喜ぶ感性に大きな違いはないようだ。

 花の兄が目を覚ますまで、けなげに寒中耐える赤。小さいながらも、限りない命の強さを感じさせてくれる植物たちである。

 

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初冬の公園

 今年は気温が高めの秋だったせいもあり、街場は今紅葉のベストシーズンを迎えている。

 うちの近所の公園も、初冬の済んだ青空を背景に銀杏の黄色や広葉樹の赤茶色が混ざり合い、思わず足を止めてしまうほどの絵画的な美しさを見せている。我が家のベランダに植えているつつましやかなブルーベリーの木も、来る長い冬の前にして、全身を美しい赤で染めた。それもまた、青空によく映える。春は個々が美しいが、秋は全景が美しい。

 これが過ぎると、自然界からは一挙に色が消えていく。常緑樹や南天やシクラメンなどの一部を除けば、枯れ木が景色を支配する。色彩的には味気ないが、晴天の日、葉を落とした広葉樹の細い枝越しに空を見ると、繊細な銅版画を見ているような気がして、これはこれで冬でしかのぞめない景色であり、楽しみである。

 四季の移ろいを見るに、花草木に勝るものはない。そして手近な美しさとしても、これに勝るものはないのである。

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初冬の空

 冬が近づくと、星影が一際鮮やかに感じられるようになる。まるで、しんしんと冷えた空気が、星の光を純氷にして煌めかせているがごとくである。

 ……と無い詩心を無理に絞り出したところで、この程度の表現しか出てこないのが、散文人間の悲しい所ではあるのだが、冬の星空が美しいことは紛れもない事実であり、それには以下のような理由があるらしい。

冬は一年中でもっとも星空がきれいな季節です。その理由は、

1.明るい一等星が多いこと

2.さまざまな色の星が見えること

3.オリオン大星雲やすばるなど、肉眼でも見える星雲や星団があること、などです。

 さらに、日没が早いので19時ごろからもう夜空が暗く、また上空の空気の流れが強いので星がキラキラとまたたいていたりと、ほかの季節にくらべて、より星空の印象が強い季節でもあります。

(『AstroArts 星空ガイド 冬の星空を楽しもう』より引用
URL http://www.astroarts.co.jp/special/2005winter/constellation-j.shtml

 確かに、冬の星座はわかりやすい。オリオン座やカシオペア座は、星座の知識がないものでも、一塊として捉えることができる特徴的な並びをしているし、シリウスの白い輝きは、否が応でも目に入る。

 子供の頃、キャンプである山にいった。そこで、生まれて初めて天の川を見た。あの時の印象は、今でも忘れられない。子供心に「息の呑む」とはこういうことかと実感したものだった。そして、流れ星が天を横切るのを目の端に捕らえた時の感激は、言葉にもできなかった。それを見てからもう四半世紀は経とうというのに、いまだに夜の夢に現れては、真に美しきものを見せてくれる。

 今冬は、何度星を見上げることになるだろうか。

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渡り鳥の季節

 今年も近所の川に渡り鳥がやってきた。

 なんの種類かはわからないが、鴨の一種であることは間違いないだろう。二、三羽、多い時には五羽以上が一個連隊を組み、きれいとは言えない川の面を気持ちよさげに泳いでいる。

 しばらく眺めていると、一羽二羽と離脱しはじめ、思い思いに水中に潜り始めた。透明度がいくらもない水なので、一瞬で姿が見えなくなる。そして、しばらくして思わぬところからポコンと顔を出す。その繰り返しが面白く、寒いのも忘れてついつい橋の上に長居をしてしまう。すると、通りがかる人たちも、つられたように川面を見つめながら通り過ぎる。中には、水鳥観察の仲間入りをする御仁もいる。特に声を掛け合うわけではないが、頭の動きが同じになって、こっちも頭だけ連隊になっている。

 そんなこんなしているうちに、とうとう生まれて初めて、水取りが水底から上がってくるシーンをライブで見てしまった。嘴をまっすぐ上に伸ばし、スーッと勢いよく昇ってくる。口には小魚をくわえていた。この夏、生まれて群れをなしていた魚のうちの一匹だろう。あの小魚たちにも、それはそれで思い入れがあったので、かすかに胸が痛む思いもするが、それよりも都会の真ん中の汚い川にも、季節の営み、そして食物連鎖の輪が存在していることに心打たれ、しばし粛然とする。

 春になり、彼らが遠くの土地に帰る日まで、しばらく楽しみが続きそうだ。

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紅葉

 今年も我が家のベランダに植えているブルーベリーの木が、見事に紅葉した。今年の傾向通り、やや遅い色づきではあったが、深みのあるガーネットのような葉色が美しい。

 紅葉というと決まって思い出すのが、子供の頃に出かけた嵯峨野は大覚寺の風景である。小学生の頃から、嵯峨御流華道を習っていたので、時折その家元である大覚寺に訪れる機会があった。

 大覚寺は、平安時代初期に在位していた嵯峨天皇の離宮だった、由緒正しき門跡寺院である。また、近代的な建物や設備が視界に入らないことから、時代劇のロケ地として重宝されていることでも有名な場所だ。「協力:大覚寺」とのクレジットに見覚えがある人も多いのではないだろうか。

 嵯峨野にあり、また皇室由来の宝物を蔵することから、いわゆる観光寺ではあるのだが、大沢の池からの景観などは、俗世を離れ殊の外素晴らしい。
 年に一度、仲秋には、池に龍頭船と鷁首船を浮かべ、古式床しい観月会が開かれる。水面に映る提灯の灯と(運が良ければ)天空に浮かぶ月の影がさす水面に、琴の音色が流れ、正に平安絵巻の再現といった催しである。
 もちろん、この時期にはまだ紅葉は見られないが、深まりゆく秋を感じ、一抹の寂寞とともに心が騒ぐ。
 全山が燃え上がるのは、通常十一月の半ば頃だろうか。この時期には、大覚寺で嵯峨菊展が開かれる。嵯峨菊は細い花弁が特徴的な、繊細高雅な古典菊で、二メートル近くまで育つ背の高い、洗練された立ち姿は、古御所の趣にいかにも相応しい。
 
 それらの景色に比べ、我が家の秋の色づきの、なんとささやかなることよ。だが、いずれも同じ秋。間もなく訪れる一年の終わりを前に、気持ちを鎮める季節になったのに気づくのである。

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朝顔の季節

 近所の家々の軒端に、朝顔が慎ましやかな面を見せる季節になった。色とりどりの、羽二重の質感を持つ花はいうまでもなく、蔓植物特有の旺盛な成長ぶりも目を楽しませてくれる。

 昨年は、朝顔市で購った一鉢を我が苫屋にも置いてみた。しかし、今年はもっぱら他所様の頼りにして観賞することにした。朝顔の栽培には、昨年ですっかり懲りてしまったのだ。育てた朝顔は、午前中には陽光がさんさんと降り注ぎ、光も暑さも厳しさを増す午後には陰になるといううちの東向き環境によっぽど適合したのか、みるみる丈を伸ばし、用意した支柱などは瞬く間に追い越し、足りなくなると自分自身に巻き付いて奇態なオブジェ状になった挙句、ついにはガス湯沸かし器の中にまで先端を潜らせるという乱暴狼藉を働くに及ぶようになり、安全面を考えると泣く泣く剪定せざるをえなくなったのである。

 注意深く見ると、近所でも、東向きに植えている家では、かなり高くまで支柱を用意している。鉢は玄関先に置きながら、二階からつるした紐に絡ませているお宅もあるほどだから、条件が合えばかなり成長するものなのだろう。

 儚げなイメージの花の、思いもよらぬ生命力。やはり、朝顔は、陽気極まる夏にふさわしい力を持つ植物なのである。

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