朝青龍問題について

 日本相撲協会は、朝青龍に対して、二場所の出場停止という重い処分を下した。さらには給与の減額、謹慎に等しい外出禁止など、今までの処分を考えるとまさに椿事というにふさわしい厳罰ぶりである。

 横綱という重責にありながら、軽率な行動が目立ち、そして一向に改める様子のない朝青龍には猛省を促したい。また、一見大変な処分だが、今までの問題行動の累積の結果だと思えば、まあこんなものか、とさえ感じる。

 だが、私は、この問題は、朝青龍個人の資質にすべてが還元するものではないと考えている。

 我が家の近所には多くの相撲部屋がある。おかげで、力士の日常というのを目にすることがあるのだが、あきれることが実に多いのである。

 たとえば、明らかに未成年とおぼしき若い力士が、平気でパチンコ屋に出入りしている姿を見る。自転車に乗りながら、手にしていた紙をポイ捨てする姿を見る。若い女性と手をつなぎながら歩く姿を見る。品格もなにもあったものではない。

 さらにいうならば、ある部屋など、相撲部屋という、日本の良き伝統を伝えるべき場所において、正月に門松はおろか注連飾りすら飾らない。この部屋にはモンゴル出身の力士も複数いる。こんなことで、どうやって日本の心を外国人である彼らに伝えるつもりなのか。今の外国人力士や若い力士たちが、四股や手刀など、独特の仕草が持つ文化的意味を理解しているのかすら、はなはだ心許ない。

 これらが何を示すのは、今の親方衆の指導力不足、そして意識の低さである。日本の伝統競技である「相撲」を作り支えているのは自分たちだという自覚のかけらも見あたらない。相撲はたんなる格闘技でもスポーツでもない。一つの文化なのだ。その担い手たちは、矜持を持つとともに強い自覚を持たなければならない世界なのである。

 相撲協会は、親方や力士に処分を下すだけではなく、角界全体の引き締めと協会自身の深い反省をもって今後の運営にあたってほしいと、切に願うものである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

美酒

 日本人にとって「お酒」とは、米で醸造された日本酒を指さなければ嘘だ、と私は思っている。ワインブームだとか、焼酎ブームだとか、米以外で作られた酒が持て囃されるのは承知の上で、それでも「酒」とは米からできたものが一等であると主張したいのだ。

 理由は簡単だ。日本の食べ物には日本の酒が最もあうからだ。魚にもあう。肉にもあう。野菜にもあう。時として、まんじゅうなどにすらあう。日本の風土から発生したものなら、日本酒と合わせて駄目な食べ物などない。

 酒とは、風土に即して発達する。そして、その国の信仰や文化に根ざすものである。つまり、酒とはその国の文化そのものであると言ってよい。

 ところが、現在は日本酒が危機に瀕しているらしい。小規模の蔵元がどんどん潰れていっているという。酒市場における日本酒のシェアが、著しく減少しているというのだ。日本人が日本酒を飲まなくなっているらしい。

 これについて、国粋的に嘆くことも可能だろう。だが、私はそのような考え方には与することができない。先のように、「酒とは則ち日本酒だ」と考えていても、である。選択の幅が広がるにつれ、消費者の心に響かない商品が淘汰されるのは当たり前である。常に価格に見合った品質を適用できるならよいが、必ずしもそうではない日本酒が市場に流通している。誰が何を根拠に値付けをしているのかわからないが、価格と味が正比例するわけではないのが日本酒の現状だ。幸いなことに、私は酒呑み人生を送る中で、ある程度の目利きができるようになってきたから、近頃はそうひどい「はずれ」はひかない。だが、まだ右も左もわからぬ状態で、高価な屑酒を手にしてしまった消費者が、それに懲りて安価で当たり外れの少ない焼酎やワインに走ったとして、誰が文句を言えるのだろうか?

 日本酒が今後生き残っていく方策は、下手なマーケティングや、戦略に頼ることなく、実直に風土に合った酒を造ること、ただこれ一つだと、私は思うのである。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

ザ・フロッグ・プリンセス

 数日前のことになるが、ディズニーが史上初めて黒人のプリンセスを主人公にしたアニメを発表する、とのニュースが配信された。

 この十数年、ディズニーがPolitically Ccorrectに、非常に神経を尖らせているのは、そのラインナップを見ればわかる。美女と野獣のヒロイン、ベルは、白人女性だが非常に現代的な性格を持つ設定になった。アラジンで、初めて非白人系のプリンセスが登場した。ポカホンタスでは、初めてネイティブ・アメリカンを主人公に据えた。ムーランでは中国人、つまり黄色人種初のヒロイン、リロアンドステッチではハワイアンの少女、と次々にアメリカではマイノリティである人種のヒロインが登場し、そして、とうとう黒人プリンセスの登場である。

 悪いこととは言わない。まして、アメリカでは、黒人はすでにマジョリティだ。自分たちと同じ肌の色をしたプリンセスを待つ少女も多いだろう。だが、この「ザ・フロッグ・プリンセス」がロシアの民話をもとにしている、と言う点に激しく違和感を感じるのだ。

 考えてみて欲しい。ロシアには、ネイティブの黒人などいない。この「ザ・フロッグ・プリンセス」、つまり日本では「蛙の王女」として紹介されている作品は、白人であるロシア人のものである。主人公が黒人であるはずがない。これでは、かぐや姫が黒人として描かれるようなものだ。

 もし、黒人の少女たちに向けて、彼女たちが共感しやすいプリンセスを描こうとするならば、なぜ彼女たちのルーツであるアフリカの伝説を取り上げないのか。もちろん、アフリカは広大で、黒人だからと一括りにすることはできない。でも、初めての自分たちのプリンセスが、全く縁もゆかりもない国の伝説を換骨奪胎したもので作られるぐらいなら、同じ大地が生んだ伝説の方がしっくりくるのではないだろうか。

 もし、黒人にメジャーなプリンセスがいないから、と考えるなら、それは早計である。黒人には飛びきり有名なプリンセスがいる。アンドロメダである。

 アンドロメダは、ギリシャ神話に登場する、人類史上でも有数の有名姫君だが、彼女はエチオピア人である。エチオピアは古代から黒人によって建設された国家であるから、アンドロメダは黒人でなければならない。ギリシャ人も、エチオピアが黒人国家であることは知っていた。その選択を、ディズニーの有能なスタッフたちが一度も気づかなかったとは考えづらい。

 ここで、うがった見方ができる。ギリシャ神話はギリシャ人の神話ではあるが、その後汎ヨーロッパ、つまりは汎白人の神話となった。長らく、アンドロメダは白人として表現されてきた。もし、ここでアンドロメダを本来の黒人として表現するとどうなるか。少なからず反発が起こるだろう。一方において、ロシアはあくまでもヨーロッパにおける辺境である。「蛙の王女」の地位は、同じ王女であってもアンドロメダに及ぶべくもない。白人の反発を避けながらも、政治的に正しいとアピールできるアニメをつくるなら、どちらが楽か。答えは明白だ。

 ディズニーは巨大産業である。創り上げる「夢」にも、様々な思惑がからむのは仕方ないだろう。だが、この手のおためごかしな「政治的な正しさ」には、眉に唾した方がよいのは間違いあるまい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)